大阪城公園内の大阪城桜門のすぐ南に豊国神社があります。読み方は「ほうこく神社」。
大坂城を築いた豊臣秀吉、豊臣秀頼、豊臣秀長を祀る神社で、出世開運、商売繁盛などのご利益があります。
因みに京都の豊国神社は「とよくに」読み、豊臣秀吉のみを主祭神としているのが特徴。
大阪城豊國神社は明治時代に中之島に鎮座。それ以前の江戸時代は、歴史から全く消えていたのです。
その理由は江戸幕府の政治や歴史が大きく関係しています。
豊国神社の江戸時代、明治時代、そして現在までの歴史について、また大阪と京都の豊国神社の関係についてもご紹介します。
豊国神社の歴史
豊国神社の歴史について、年表でまとめました。
- 1598年(慶長3年):豊臣秀吉が自らを神として祀るようにと遺言に残し、この世を去る
- 1599年(慶長4年):朝廷から豊臣秀吉に「豊国大明神」という神号を与え、京都東山の阿弥陀ヶ峰山頂に建てられた豊国神社に神として祀る
- 1615年(慶長20年):大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶ。徳川家康は豊国神社を破壊。神号もはく奪
- 1868年(明治元年):明治天皇の大阪行幸の際に、豊臣秀吉の名誉回復を宣言し、神号を贈る
- 1879年(明治12年):豊国神社が復活。再び「豊国大明神」となり、京都に本社を造営し、大阪・中之島に別社を再建
- 1912年(大正元年):大阪別社を中之島から現在の大阪市役所に移す
- 1921年(大正10年):京都の本社から独立して、豊國(ほうこく)神社となる
- 1961年(昭和36年):用地拡張の為に、大坂城内に移され現在に至る
慶応4年(=明治元年)以降は、本社を京都に別社を中之島に再建、大阪市中央公会堂横の大阪市役所に移し、その後、現在の大坂城内に移しました。
この豊国神社の年表を見ると、江戸時代の約250年間、豊国神社が地図に載っていない理由や明治時代に中之島にあったのもよくわかります。
江戸時代にはく奪されていた神号が、明治時代になり大久保利通が天皇親政をアピールする大阪遷都を構想しました。
その一環として、明治天皇の勅命として豊臣秀吉の名誉回復が宣言されたのです。
関ヶ原の戦い以後、薩摩藩と長州藩、土佐藩などは、徳川幕府に対し煮え湯を飲まされて過ごしてきました。
そのうっ憤を晴らした形になっています。江戸時代に消滅してしまった豊臣家の名誉が、明治時代に復活したのです。
大阪と京都にある豊国神社の関係
京都と大阪に「豊国神社」があります。京都は「とよくに」、大阪は「ほうこく」と読みます。
なぜ豊国神社が複数あるのかに興味があったので調べて、上の年表にまとめました。
京都は本社、大阪が別社として再建され、その後1921年(大正10年)に「豊国神社」として独立していたのですね。
豊国神社は大阪、京都以外に、金沢市、名古屋市、長浜市、小松島市、福岡市、大垣市(白鬚神社境内社)、廿日市市宮島(厳島神社末社)にもあります。
参考:特別展「大阪城の近代史」図録、「第3章 太閤人気と天守閣復興」より
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