大阪城天守閣や本丸へ向かう南門の入口、丁度「豊国神社」の向かい側に重要文化財「桜門」があります。
この桜門は、大阪城の本丸に入る正門です。色々な門がありますが、江戸時代はこの門をメインとして出入りしていました。
豊臣時代、徳川時代、そして戦後の台風と続き今の桜門があります。桜門の場所、地図、歴史についてご紹介します。
さらに詳しく
大阪城「桜門」の場所
森ノ宮駅から歩くと東から、谷町四丁目駅からだと西からくることになります。この桜門が見えると大阪城天守閣まであと少しです。
この下は内堀(内濠)になっているので、少し上り坂になっています。
この内堀は現在、水のない空堀になっています。緑が生い茂っています。
内堀が空堀である理由は、この周辺が上町台地の中で一番地盤が堅かったため、地下水の水脈のある深さまで掘ることが難しいことから空堀になりました。
この大阪城は徳川時代に築かれましたが、それ以前の豊臣時代からずっと、この桜門周辺の内堀は空堀でした。
桜門に入ろうとすると、丁度目の前に大阪城天守閣が顔を出しています。実際は、丁度右折してから向かうのですが、大阪城の大きさから上部が見えています。
ここは写真スポットなのですが、観光客が多いので、誰もいない状態で撮影するのはなかなか難しいですね。
門を撮影。重厚な黒色の鉄の扉。
桜門の後姿はこのような形をしています。
桜門の歴史
桜門入ってすぐに、説明文があります。
本丸の正門にあたる。重要文化財。1626年(寛永3年)、徳川幕府の大坂城再築工事で創建されたが、1868年(慶応4年=明治元年)に陸軍により再建し現在に至る。
左右の門も再建時に新築されたが、戦後の台風により倒壊。1969年(昭和44年)に復元されている。
桜門の名称は豊臣秀吉が築いた時からのもの。当時は二ノ丸の桜の馬場にあったため、近くの桜並木に因んで命名された。
ただ、当時の桜門は、徳川再築の地家と構造が大きく異なる。当時の本丸入口は今よりも西側にあり、方向も違っていた。
門の両脇にある石は「龍虎石(りゅうこいし)」と呼ばれ、江戸時代には右に龍が、左に虎が現れると言われていた。
参考:桜門、説明文を抜粋し要約
豊臣時代から桜門はありましたが、名前が同じでも、場所も方角も違っていたそうです。桜門がこの場所になったのは徳川時代ですね。
江戸時代に桜門の内側に入ることができたのは、1万石以上の大名級に限られていたそうです。
内に入るとカタカナのコの字を左右逆にしたような形(桝形)になっていて、すぐに攻められないようになっています。桜門入ってすぐに、大阪城で最大級の巨石「蛸石」があります。
説明文にある、桜門両脇にある石「龍虎石」については、「金城聞見禄」に書かれているようです。大阪城天守閣学芸員の北川央さんが15年以上、雨の中を含めて毎日通われていますが、まだ未だに龍や虎が浮き上がるのを見たことが無いそうです。
桜門は再建されているにも関わらず重要文化財
桜門は重要文化財でありながら、明治20年代に再建されています。にも関わらず重要文化財になっているのは、他には例がないそうです。
再建されている証拠に、桜門の高麗門形式の屋根には、桐門がついています。この大阪城は豊臣時代に築かれたものなので、葵の御紋であるのが普通なのですが、明治時代に再建されているので桐の御紋に変わっています。
大阪城「桜門」地図
出典:大阪城公園園内MAP
▲桜門に向かう道順。森ノ宮駅からは東から玉造口を通って桜門へ。谷町四丁目駅からは西側から大手門、多聞櫓を通り桜門に入ります。