徳川家康

徳川家康の性格

徳川家康の性格

徳川家康についてまとめています。今回は徳川家康の性格についてです。

若い時の人質生活やたくさんの戦を通じて、彼の性格が決ったように思います。

若い時の人質時代、織田信長との同盟、大きな国に挟まれたことなどから得た生き残るための秘訣など、徳川家康の性格についてまとめてみました。

 

周りの意見を聞いてから判断する性格

徳川家康

徳川家康は周りの家臣の意見を聞いてから物事を判断する慎重な性格でした。

戦に巧みな家臣を置き、彼らの戦術を優先してきました。そのため、徳川軍は戦に強かったのです。

それは周りの意見など寄せ付けない織田信長や豊臣秀吉を見てきたからに他なりません。

今の日本の政治や会社の組織を形付けたのは、徳川家康からかもしれません。

 

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人質時代に太原雪斎から兵法や儒教を学んだことで知略がついた

徳川家康(竹千代)

徳川家康は人質時代に太原雪斎から兵法儒教、孫子を学んだことが後の彼自身を作ったと言えます。

大将は強いだけではダメ、家臣の心を掴むことが大事、先に見方の情勢を知ることが重要などを学びました。

特に七分勝ち、失敗の経験が次の戦に活かせることを学んだことは大きいです。

家康自身は何度か戦に負けていますが、それでも次に活かせたのは、書物や兵法などから学べたことが大きいように思います。

 

人質時代の経験により相手側に立って客観的に見ることができるようになった

徳川家康は人質時代を2度経験したことで、相手の立場になって客観的に見ることができるようになりました。

人質時代、一時的ではありますが自分の国戻ることができました。(人質ではありますが)自分は贅沢な生活ができていたことを知ることになります。

実際に国に戻ると家臣が農民として働かないと暮らしていけなかったなど、色々な視点から知ることができたなど、違う視点で見る機会を何度も得ました。

相手の立場になって物事を客観的に見ることができるようになったことが、いくつもある分岐点で好機を掴んだと言えます。

 

戦を通じて家臣を大事にするようになった

徳川家康

武田信玄に大敗した「三方ヶ原の戦い」を通じて徳川家康は家臣を大事にするようになりました。

この戦は家臣8000人のうち800人も亡くなっています。

これまで以上に自分が家臣に生かされてきたことがわかり、それ以降以前よりも家臣を大事にするようになりました。

 

家臣が得意なこと分析して使い分けてきた

徳川家康は家臣を近くにおいて、それぞれが得意とする能力を発揮させてきました。

例えば、本多忠勝はファイターというイメージですが、彼が戦術をたてることは得意ではありません。彼にはあくまで軍人的な行動のみに制限しています。

戦略が得意な家臣、政治が得意な家臣、戦いが得意な家臣などに分けて、それぞれ得意な家臣に支持を仰いで、徳川軍が強くなっていきました

徳川(松平)は大国に挟まれて苦労を重ねてきたことで、自国がどのようにして大国とやりあっていくのかが作られたように思います。

 

人の長所を見つけることが得意だった

徳川家康は人質以降も色々な場所に国を移動させられてきました。

信濃、甲斐、駿河、遠江、三河に5カ国を得たにも関わらず、豊臣秀吉により江戸に移動させられています。

この時もあまりにも何もない江戸に絶望しますが、関東の広さを利用して発展させていきます。

その時期によって色々な土地に移動しますが、その土地の良さを引き出していきました

家臣の使い分けと似ていますが、長所を見つけることが得意だったと思われます。

 

視野の広さ、先を見通す能力がある

征夷大将軍になった徳川家康ですが、すでに晩年に差し迫っています。

自分が亡くなった後で攻められると1代で徳川幕府が終わってしまうことを危惧して、すぐに子供の徳川秀忠に将軍職を譲りました。

これにより徳川家が世襲していくということを、豊臣軍にわからせるためです。

視野が広く、先を見通す力があったと思われます。

 

歴史書や書物から生き残り方を学んだ

関ケ原の戦い時に、歴史書や書物から学んだことを生かしての本陣を構えました。

場所は桃配山。この地は大昔に壬申の乱があった時にこの地が使われていたことを知っていたからです。

徳川家康は過去の歴史から生き残り方を学んだと言えます。

 

食べ物や運動など健康に気をつけたことで長生きした

徳川家康は健康オタクでした。麦飯、味噌など粗食で、外で食べる場合は念の為に必ず火を通して食べていました。

旬なものしか食べない主義でもありました。旬を過ぎたいただきものの食べ物は家臣にあげていたことようです。

食べ物以外でも運動をしていました。

乗馬、水泳、剣術、そして鷹狩などは70歳を過ぎても行っています。

医学書を好み、生薬を組み合わせて独自の薬を作ったりしています。家康が作った薬で回復した例もいくつかあります

その他、香木の伽羅(きゃら)を入手して毎日の疲れを癒やしていたことが文献に残っています。

小さい時からたくさんの書物を読み育ってきたので、読書好きであり色々な書物から長生きにつながる秘訣を見つけていきました。

もし徳川家康が数年早く亡くなっていたら、大坂冬の陣や大坂夏の陣の時に亡くなっていたかもしれません。そうなると歴史が大きく変わってきますからね。

長生きするための工夫が江戸幕府を作ったとも言えます

 

徳川家康の性格まとめ

徳川家康の性格

徳川家康の性格をまとめます。

  • 周りの意見を聞いてから判断する性格
  • 人質時代に太原雪斎から兵法や儒教を学んだことで知略がついた
  • 人質時代の経験により相手側に立って客観的に見ることができるようになった
  • 戦を通じて家臣を大事にするようになった
  • 家臣が得意なこと分析して使い分けてきた
  • 人の長所を見つけることが得意だった
  • 視野の広さ、先を見通す能力がある
  • 歴史書や書物から生き残り方を学んだ
  • 食べ物や運動など健康に気をつけたことで長生きした

人質時代に太原雪斎から学んだこと、周りに囲まれた小国だったことから生き残り方を学びました

そして、人質時代を通じて観察力がありました。視野の広さ、先を見通す力があったと思います。

 

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