越中井(えっちゅうい)という井戸が、大阪城天守閣の南側にあります。
豊臣大坂城時代、この場所は大坂城三の丸にあたり、戦国武将の屋敷がたくさんありました。
その一つに細川忠興の屋敷があり、その屋敷の井戸「越中井」が今でも史跡として残っています。
この地は細川ガラシャ夫人最後の地としても知られています。
越中井(細川忠興屋敷跡・細川ガラシャ最期の地)の説明・歴史
越中井(えっちゅうい)は、大坂城三の丸の細川忠興屋敷跡にあります。細川氏の官位が越中守であったことから「越中の井戸」ということで、越中井と呼ばれています。
この地に細川ガラシャ(明智光秀の三女・玉子、細川忠興の正室)が住み始めたのは1578年です。
▲細川ガラシャ夫人像・前田青邨(せいそん)画 「史蹟・越中井由来」の説明板より
細川忠興は家臣2人を付け細川ガラシャを監視します。外出制限されたガラシャは極度の鬱病に悩まされますが、それを救ったのがキリスト教でした。
大坂城下にあった協会を訪れ、キリスト教に興味を持ちます。教えの疑問に修道士はたくさんの回答をしました。
それに納得したガラシャは熱心なキリシタンになります。
この時のガラシャの生きがいと言えば、1人でも多くの人々をキリシタンにすること。細川家の家臣や侍女などをキリシタンに改宗させていきました。
バテレン追放令が出された直後、細川忠興に内緒で洗礼を受け、ガラシャの名前を授かっています。
ガラシャとは「恵みや恩寵」という意味があります。
豊臣秀吉の死後、石田三成が細川忠興を味方につけたいため、細川ガラシャ夫人を人質にしようと細川屋敷周辺を取り囲みますが、それに対し、細川ガラシャはその要求をはねのけます。
武力を使ってでも押しとるという脅しにも動じません。
屋敷にいた娘の多羅(タラ)、万、長男の細川忠隆の妻・千代(前田利家の娘)たちを脱出させ、ガラシャ自身はキリシタンなので自害ができないことから、家老の小笠原少斎に命じ、屋敷を燃やし、最期を遂げました。
▲手前は井戸と、その奥には「細川忠興夫人秀林院殉節之遺跡」石碑、地蔵尊があります。
細川屋敷の焼け跡には、台所にあった井戸だけが残ったことから「越中井」と呼ばれるようになりました。
「越中井」は江戸時代後期から既に観光地となっています。
細川ガラシャ夫人の辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
辞世の句(和歌)は「細川忠興夫人秀林院殉節之遺跡」石碑の側面に書かれています。
「細川忠興夫人秀林院殉節之遺跡」石碑の裏側によると、昭和9年にこの石碑は建立されています。
参考文献:史蹟「越中井由来」の説明板、書籍「大坂城と大坂の陣〜その史実・伝承」より
越中井(細川忠興屋敷跡・細川ガラシャ最期の地)のアクセス・場所
越中井(細川忠興屋敷跡・細川ガラシャ夫人最期の地)は、大阪城公園の南側に位置します。
大阪城南外堀のすぐ南にバス専用の駐車場があり、そこから南に行くと信号があり、KKRホテル大阪があります。
KKRホテル大阪を少し東に行くと中央大通に出ます。その信号を渡り、ファミマとマンション「ファンシティ大阪城公園」横の細い道を南に下ると着きます。
上の写真は越中井横の歩道。奥の大阪城公園に向かうほど上り坂になっているのがわかります(上町台地)。
「越中井」とその横の車道(一方通行)の様子。
真ん中にある越中井。それを避けるように左側は歩道、右側は車道(一方通行)となっています。
越中井から東側を見た様子。道路の横には越中公園があります。
JR・大阪メトロ「森ノ宮駅」から直接行く場合は、上の写真の道の奥から来ることになります。
すぐ南には細川ガラシャ像・高山右近像がある「聖マリア大聖堂カトリック玉造教会」がすぐ近くにあるので、あわせて訪れてみて下さい。
- 名称:越中井「細川忠興夫人秀林院殉節之遺跡」
- 大阪市中央区森ノ宮中央2丁目12 越中公園そば(Google Map)
- 交通アクセス①:大阪メトロ中央線・長堀鶴見緑地線「森ノ宮駅」2番出口より徒歩9分
- 交通アクセス②:JR大阪環状線「森ノ宮駅」下車、徒歩11分
- 交通アクセス③:大阪メトロ長堀鶴見緑地線「玉造駅」①番出口より徒歩10分