大阪城公園内に幕末の薩長軍が建てた石碑「城中焼亡埋骨墳」があります。読み方は「じょうちゅうしょうぼうまいこつふん」。
明治維新の薩長軍(新政府軍)と旧幕府軍との戦いに大きく関係がある石碑です。その周辺だけがとても重くて暗くなっており、あまり知られていません。
「城中焼亡埋骨墳」のアクセスとその歴史について、地図付きでご紹介します。
さらに詳しく
「城中焼亡埋骨墳」場所
大阪城公園内の「ピースおおさか」の写真です。中央にピースおおさかの案内板、そして右にトイレがあります。
この写真の矢印のように行きましょう。奥にピース大阪がありますが、その横あたりになります。
ピース大阪の横あたりは「においの広場」と言うそうです。見取り図にそう書かれていました。
その奥、道路側に進みましょう。
「城中焼亡埋骨墳」に着きました。この写真の丁度反対側から来たことになります。
「城中焼亡埋骨墳」の歴史
石碑に「城中焼亡埋骨墳」と書かれ、左前に黒川吉野、右に黒川由松と刻まれています。
このあたりはうす暗くて読みづらいですね。すぐ横に説明文がありました。
1868年(慶応四年=明治元年)1月、明治維新により旧幕府軍が本拠地としていた大坂城が新政府軍(薩長軍)に引き渡される時に、いさぎよしとしない幕臣たちが、城内に火を放ち自害をしました。
新政府軍の主力だった薩摩藩と長州藩の有志達が、彼らの遺骨を埋葬し、武士の鑑(かがみ)とたたえて、1868年7月この石碑を建立しました。
後、この碑は「残念塚」「残念さん」と呼ばれ、どんな願いをかなえてくれる神様として人々の信仰を集めました。
参考:説明文の一部を抜粋し要約
薩長軍(新政府軍)が「鳥羽伏見の戦い」から進行し、敗走した幕府軍が大坂城に火を放ったということは有名で絵がたくさん残っています。その時に多くの幕臣たちが自刃しました。
それを薩長軍がたたえ、この場所に石碑「城中焼亡埋骨墳」を建立しています。つまりこの石碑は幕末の大坂城落城の時に亡くなった幕臣たちの遺骨ということになります。
石碑の裏側には「慶応四年辰歳七月 薩州(薩摩)・長州建立」と書かれていました。
図録で大坂城の大火を確認
図録「特別展・大阪城の近代史」にはたくさんの当時の「大坂の大火」が絵に残されています。
「瓦版・伏見・大坂・堺の大火」「瓦版・鳥羽伏見の戦いから大坂落城」には淀・津藩の寝返りもあり、大坂城に敗走したとあります。
また「城中大火図」では徳川慶喜に見捨てられた大坂城が大混乱になり、新政府軍の先遣隊と幕府方代表妻木頼矩(つまきよりのり)らが城明け渡しの交渉中に、本丸御殿の台所付近から火が出て燃え広がり、翌日までに城の大半が焼失したと書かれています。
その他、図録「幕末の大坂城~将軍家茂・慶喜の居た城~」にも「錦絵・城中大火図」(歌川(一養斎)芳瀧)の絵では、市民が大手門前の小高い広場(現大阪府庁付近)で見物している様子が描かれています。
学芸員が「城中焼亡埋骨墳」を語る
大阪城天守閣学芸員の北川央氏によると、幕末の大坂城落城の時に亡くなった幕臣たちの遺骨であることを知らない市民が「城中焼亡埋骨墳」を大坂夏の陣で亡くなった豊臣家ゆかりの人々の遺骨が納められていると勘違いをし、そうした話が広く語られるようになりました。
その結果、「城中焼亡埋骨墳」の隣に「南無妙法蓮華経淀君の霊」という石碑が新たに建てられ、淀殿の菩提を弔う方まで出てきたと話されています。
確かにその隣に小さく「南無妙法蓮華経淀君の霊」という碑があります(上の写真を参照)。ぜひ行かれる方はそちらも確認してみてください。
「城中焼亡埋骨墳」地図・アクセス
参考:大阪城公園案内図より
最寄駅は森ノ宮駅。安全な行き方としては森ノ宮駅から大阪城公園内に入り、噴水まで行き、左側にあるローソンの道(大阪城野外音楽堂の道)を歩き階段を上ると「ピースおおさか」があります。その横付近の道路寄りにあります。
もう一つの行き方は森ノ宮駅から大阪城公園に入らず道路歩道の坂をずっと西側に上っていくとありますが、坂を自転車で下りてくる人がいるので注意しましょう。
目印は「ピースおおさか」の西隣。誰もが気が付かれない場所なので、目印を覚えておきましょう。