大阪城の正門である大手門から入ってしばらく歩くと、石垣に挟まれたの通り道があります。そこが太鼓櫓跡です。
幕末の戊辰戦争により櫓は焼失してしまったため、現在は石垣だけが残っています。この門は南仕切門と呼ばれていました。
大阪城「太鼓櫓跡(南仕切門跡)」の場所、地図、その歴史についてご紹介します。
さらに詳しく
「太鼓櫓跡」場所
正門である大手門を入り、多聞櫓を抜けてしばらく歩きましょう。
丁度、西の丸庭園入口の反対側に石垣があります。これが太鼓櫓。いかにも上に櫓があったのがイメージできますね。
写真の太鼓櫓跡を抜けて、左に見えている薄い緑色の建物は修道館です。
地下鉄「谷町四丁目駅」と「天満橋駅」から来る人が多いので、この場所も結構混雑しています。
太鼓櫓跡の石垣を越えると、とても綺麗な桜が咲いていました。温かくなると石段に座ってゆったりランチもできますね。
「南仕切門・太鼓櫓跡」説明
太鼓櫓跡横に説明文があります。
二ノ丸の南西の区域は石垣によって仕切られていて、ここに建っていたのが南仕切門です。
門の西側石垣の上には太鼓櫓とよばれる二層の櫓があり、ともに徳川幕府の大坂城再築工事の最終段階である1628年(寛永5年)に創建されたと考えられています。
太鼓櫓は場内の櫓の中で最も小規模で、中に本当に太鼓が納められていました。
ここには太鼓坊主と呼ばれている僧形(そうぎょう)の役人が交代で詰め、香(こう)をたいて時刻を計り、城内勤務の大尿や旗本以下の召集や交替、緊急時に太鼓を鳴らしていました。
いずれも1868年(慶応4年=明治元年)の明治維新の大火によって焼失しています。
参考:太鼓櫓跡の説明を抜粋し要約
南仕切門があり、その門の中に太鼓櫓がありましたが、残念ながら幕末の戊辰戦争で焼失しているため、現在は石垣しかありません(上の写真参照)。
櫓の上には太鼓で時刻を告げていたので、太鼓櫓と呼ばれています。小さな二層櫓です。
図録で太鼓櫓を確認
幕末の戊辰戦争で焼失した太鼓櫓ですが、奇跡的に写真が収められています。図録「幕末の大坂城」に載っている「幕末大坂城湿板写真原板の内・太鼓橋」という写真です。
この写真は最後の将軍徳川慶喜の命令により写真師が大坂城内に招かれて撮影したものと推定されています。新しいもの好きの慶喜らしさが出ています。
この写真は大阪城天守閣の所蔵品ですが、全く同じ大きさで、同じ箱に入った状態で49枚も宮内庁書陵部の蔵品の中から発見されています。
大火になるギリギリに撮影されたもので、とても貴重ですね。当時の写真を見ると、南仕切門の中に小さな櫓が一つ分突き出しています。そこから太鼓を鳴らしていたのでしょう。
なかなか面白い形をしていますよ。また、南仕切門の前が何も無い広場であることも、今とは大きく異なっています。
学芸員が太鼓櫓を語る
大阪城天守閣学芸員の北川央氏は、徳川慶喜の写真について語っています。それによると、宮内庁と大阪城天守閣に分けられて所蔵されていたそうです。
それらを繋がれると、少なくとも本丸の周辺は完全に復元できると語っています。
また、これらの写真は風景写真として撮られたものではなく、何か特別な目的で撮影されたのだろうと考えるとも語っています。
大阪城「太鼓櫓跡」地図・アクセス
参考:大阪城公園案内図
大手門より入り、多聞櫓を抜け右折し直進するとあります。最寄駅は地下鉄の谷町線・中央線「谷町四丁目駅」。
比較的天満橋駅からも近いですが、大手門まで南に歩く必要があります。
JR環状線・地下鉄中央線・長堀鶴見緑地線「森ノ宮駅」からは、玉造口から入り桜門を入らずに直進するとあります。大坂城公園駅からは丁度反対側になります。