豊臣秀吉についてまとめています。今回は豊臣秀吉の家紋です。
秀吉の家紋は一つではありません。木下・羽柴・豊臣・天下統一後の4種類存在します。
- 木下
- 羽柴
- 豊臣
- 天下統一後
それぞれの家紋が使われるようになった理由・経緯について紹介します。
豊臣秀吉の家紋1「沢瀉紋(おもだかもん)」:木下藤吉郎時代
豊臣秀吉が木下藤吉郎の時代は「沢瀉紋(おもだかもん)」の家紋でした。
秀吉は農民出身だったことから名字持ちではありませんでしたが、後にねね(おね)と結婚する時にねねの父・杉原定利が改名し木下祐久となったことから、木下藤吉郎秀吉と名乗るようになりました。
その時から沢瀉紋(おもだかもん)も使用するようになっています。
木下家の家紋は沢瀉紋(おもだかもん)ですが、その中でも「立ち沢瀉(変わり立ち沢瀉)」という家紋を使用しています。
豊臣秀吉の家紋2「五三桐」:羽柴秀吉時代(織田信長の家臣)
豊臣秀吉が羽柴秀吉時代に使用していた家紋は「五三桐」(ごさんの桐)です。
羽柴姓を名乗った時期は、織田の家臣時代です。丹羽長秀と柴田勝家にあやかるために、丹羽の「羽」と柴田の「柴」を足して「羽柴」としました。
この時期に五三桐を使用しています。
家紋の上部にある桐が中央に「五」、左右に「三」ある家紋。
家紋「五三桐」については、織田信長の家臣時代に、信長から与えられた家紋です。
豊臣秀吉の家紋3「五七桐」:正親町天皇から豊臣の氏をいただいた時から使用
豊臣秀吉が次に使用した家紋が「五七桐」(ごしちの桐)です。見た目は似ていますが、桐の数が異なります。
家紋の上部にある桐が左右に「五」、中央に「七」ある家紋。
正親町(おおぎまち)天皇から「豊臣」の氏をいただいた時期から、秀吉が使い始めました。
「五三桐」と比較すると桐の数が増えているので、自分自身が出世したという意味があるのかもしれません。
この桐紋が最もポピュラーで、豊臣秀吉と言えば「五七桐」がよく使われています。
豊臣秀吉の神社「豊国神社」。左右に「五七桐」の提灯があります。
豊臣秀吉の家紋4「太閤桐」:五三桐と五七桐を使用する家臣が増えたため
そして最後に豊臣秀吉が使用した家紋が「太閤桐(たいこうもん)」です。天下統一後に使用。
なぜ「太閤桐」を使うようになったのかと言うと、「五三桐」や「五七桐」を功績のあった家臣に与えるようにしたためです。
その後あまりにも与えすぎたため、増えすぎてわかりにくいのと、価値がなくなってしまったことから、豊臣秀吉とわかる家紋「太閤桐」を作ったと言われています。
「太閤桐」はこれまでの桐の家紋「五三桐」や「五七桐」よりもシンプルになっていますね。
天皇家の使用紋である「菊」と「桐」の両方を手に入れことからこのデザインになっています。
具足、大阪城の外装、調度品に付けている使用例し豊臣の象徴としました。
豊臣秀吉のひょうたんは家紋ではなく馬印
豊臣秀吉の家紋のイメージの一つにひょうたん(瓢箪)がありますが、これは家紋ではなく馬印です。
戦国時代、武将の場所がわかるように馬の近くで棒状の先に付けた印を掲げていました。
元々は旗印から始まり馬印に変わりました。
秀吉は瓢箪を逆さまにした馬印を採用していました。大馬印や小馬印と呼ばれています。千成瓢箪は実際には使われなかったそうです。
その印象が強いことから、豊臣秀吉の家紋と言えば、ひょうたん(瓢箪)というイメージが残っています。
まとめ
豊臣秀吉が使用した家紋は以下の4つです。
- 沢瀉紋(おもだかもん):木下藤吉郎時代
- 五三桐:羽柴秀吉(織田の家臣)時代
- 五七桐:正親町天皇から豊臣の氏をいただいた時期
- 太閤桐:天下統一後
順に出世しているのが家紋からもわかります。
4つとも秀吉の家紋ですが、この中で「豊臣秀吉の家紋は?」と聞かれたら、2つ目の「五七桐」になります。
秀吉死後、豊臣秀頼も「五七桐」を使用しています。
例えば豊臣軍の武将・御宿勘兵衛が大坂夏の陣で用いた軍旗「絹地桐紋四半旗」にも「五七桐」が用いたのを図録で確認しました。
桐紋は皇室に縁の深い家紋であり、日本政府の紋章にもなっています。
参考文献:図録「真田幸村の障害を彩った人たち」
参考文献:家紋から日本の歴史をさぐる(ごま書房)
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