大阪城天守閣に入る直前に大砲があります。この大砲は何のためにあるのでしょうか?
明治時代にはお昼をつげる号砲として使われ、大阪市民の時報として親しまれてきました。
大阪城「大砲」の場所、地図、その歴史についてご紹介します。
さらに詳しく
大砲の場所
本丸に入ると大きな大阪城天守閣が見えます。その右側に入場エリアがあります。
入口から入り、階段を上りましょう。
左側に方向をかえ階段を上ると、少しだけ大砲が見えています。
階段を上ると小天守台になっています。そこから天守閣に入る丁度直前に大砲があります。
「大砲」の歴史
大阪城の大砲がある丁度斜め前に、「号砲」と書かれた説明文があります。
この大砲は、全長34.8m、砲口の内径20cm、外形40cm、先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種です。
1863年、幕府の命令により、美作津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎(くだらせいじろう)が製造し、大阪天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたと伝えられています。
1870年(明治3年)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内に響き渡り、「お城のドン」「お午(お昼)のドン」の名で市民に親しまれました。
火薬の節約や、その他の理由により1983~1924年(大正12~13年)頃中止されました。その時期と事情ははっきりとは分かってません。
参考:大阪城「号砲」の説明を抜粋し要約
この大砲は幕末に美作津山藩が製造したもので、天保山の砲台のために付けられていたようです。その後、明治時代に入り、お昼を知らせる号砲として使われるようになりました。
大砲と言えば一見怖いイメージですが、大阪市民にとってはお昼を告げる合図ということで、親しまれていました。
大坂城「大砲」年表
- 幕末:大坂天保山に砲台の一つとして設置される
- 明治初年:大坂城内に移動。大天守台に置かれていた
- 明治3年:時刻を知らせる号砲として使われる(日に3度)
- 明治7年:号砲が昼の1回だけに変更
- 大正13年:お昼を知らせる号砲が中止になる
- 昭和6年:天守閣復興の時に、小天守台に移動
- 平成9年:現在の天守閣入口に移動
図録で大砲を確認
図録「大坂城の近代史」に「大坂城址絵葉書」があり、その中に「大坂城内午砲発射の光景」というパネルが展示されました。大砲を取り囲む4人の人(軍人)と、大砲から発射される白い煙で充満している様子が絵葉書になっています。
それによると、明治時代は天守閣がなかったので、天守台だけ。この時は大天守台の西南隅に設置されていたようです。大正13年に中止、現在は天守閣入口に移動しています。
学芸員が大砲を語る
大阪城天守閣学芸員の北川央氏によると、現在天守閣入口にある大砲は、1997年(平成9年)3月の「平成の大改修」による大工事の時に、大砲をこの場所に移動させたそうです。
それまでは長い間、外部エレベーターが設置されている小天守台の東側に置かれていました。
天保山に砲台が設置された理由
天保山に大砲が築かれたのは、1854年(嘉永7年=安政元年)9月18日にロシア船「ディアナ号」が大坂湾に姿を現したことが切っ掛けです。そのうちの一つがこの大砲です。
明治時代に大砲は鐘の代わりに使われる
江戸時代は釣鐘屋敷(現在の釣鐘町)から時報の鐘として「仁政の鐘」をならしていましたが、明治時代になり徳川幕府の支配をたたえる「仁政の鐘」を鳴らすわけにはいかず、この大砲が時報代わりになったそうです。
お昼の号砲が大正13年に中止された理由
1924年(大正13年)にお昼の号砲がなくなった理由は、西区江之子島にあった大阪府庁が、大坂城大手前(現在の場所)に建てられることになったことからです。
大坂城の目の前に大阪府庁があるので、あまりにも大きな音が問題になり中止になったと語っています。
大阪城「大砲」地図、アクセス
大砲は大阪城天守閣入口の直前にあります。天守台にあるので、残念ながら入場券を買った方しか見ることができません。
地下鉄谷町線・中央線「谷町四丁目駅」からは大手門を入り、太鼓櫓跡を越え桜門から大阪城天守閣を目指しましょう。
JR環状線・地下鉄中央線・長堀鶴見緑地線「森ノ宮駅」からは玉造口から入り、桜門を越え天守閣に行きましょう。
JR環状線「大坂城公園駅」と長堀鶴見緑地線「大阪ビジネスパーク駅」からは、大阪城ホール横を通り、青屋門と極楽橋を通り天守閣に行きましょう。
地下鉄谷町線・京阪本線「天満橋駅」からは京阪口か青屋門、又は正門の大手門から入りましょう。