大阪城

「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」碑、淀君並殉死者三十二名忠霊塔

「豊臣秀頼・淀殿自害の地」碑

大坂夏の陣で大坂城の城主・豊臣秀頼とその母である淀殿は落城直後に自刃しました(三十二義士:大野治長、毛利勝永、真田大輔、大蔵卿の局なども含む)。

自刃した場所とされている碑が大阪城公園内の山里曲輪付近(大阪城の裏)にあります。また、その近くに忠霊塔もありますよ。

大阪城天守閣を目指すと気づかずに通り過ぎてしまうので、忘れずに立ち寄ってみて下さい。

豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」碑と「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」の場所とその解説文、三十二義士の名前についてご紹介します。

さらに詳しく

 

「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」碑の場所と説明

「豊臣秀頼・淀殿自刃の地」碑の地図

JR環状線「大阪城公園駅」や地下鉄「大阪ビジネスパーク駅」から来られる方は極楽橋を通ります。

 

大阪城公園「刻印石広場」

その極楽橋を越えたあたりに「刻印石広場」という場所があります。このあたりを山里曲輪、又は山里丸と言います。

この刻印石とは、大阪城を建設する時に各大名が各国から大きな石を集め、その石に家紋を記していました。当時使われていた石が展示されている広場です。

ほとんどの方は大阪城天守閣を目指しているため、ここを素通りしてしまいますが、この「刻印石広場」の東側に「豊臣秀頼・淀殿自害の地」碑があります(場所は地図の赤い文字を参照)。

 

「豊臣秀頼・淀殿自害の地」碑付近

ベンチに座っている方のさらに向こうにひっそりとその碑はあります。行ってみましょう。

 

「豊臣秀頼・淀殿自刃の地」碑と説明書き

近づいてみると「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」碑と説明書きがあります。

 

「豊臣秀頼・淀殿自害の地」碑

「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」碑。いつも通るとお花が飾られています。

慶長20年(=元和元年、1615年)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。それにちなんで平成9年(1997年)、現在の山里丸の一角に大阪市の手により、この記念碑が建てられた。

「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」碑の横にある説明書き」より

この碑は1997年に碑が建てられています。比較的新しい碑ですね。この周辺が山里丸の一角だったようです。

 

「豊臣秀頼・淀殿ら自害の地」碑の裏側

碑の裏側にも説明書きがあります。

慶長20年(1615年)5月8日、大阪城主豊臣秀頼とその母淀殿をはじめとする主従約30名は、落城直後の大坂城内で自刃した。

その場所については諸説あるが、ここ山里曲輪の一角にあった矢倉の中とする説が有力である。

「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」碑の裏側の説明書きより

どちらの解説も内容が似ていますが、コチラの方は主従約30名が自刃したとより詳しく書かれています。

この「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」碑の方はまだ見つけやすいのですが、もう一つ近くに忠霊塔があります

そちらは気が付かない方が多いので、次に詳しく場所をご紹介します。

 

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「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」の場所と説明

大阪城公園「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」地図

「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」は、同じ刻印石広場の最も西側にあります(場所は地図のピンクの文字参照)。

少し外れで段の上にあるので気が付かない方が多いです。

 

刻印石広場から見た「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」

刻印石広場から西側を見ると段の上に、赤い柵とその周辺だけ木が立っている個所があります。そこが「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」です。

※赤い柵と木が目印

 

大阪城公園「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」付近

少し外れているので、知らない人は近づかない方が多い場所です。

 

淀君並殉死者三十二名忠霊塔

段を上ると「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」に着きます。特に解説は無いのですが、三十二名の名前が書かれています。

  • 淀君
  • 大野治長、大野治徳、速水時之、速水出来丸
  • 毛利勝永、毛利長門、高橋半三郎、高橋十三郎
  • 植原八蔵、植原三十郎、中髙将藍、中髙半三郎
  • 津川親行、武田永翁、堀対馬守、武田佐吉
  • 小室茂兵衛、土佐庄五郎、加藤弥平太、片岡十右衛門
  • 森島長意、伊藤武蔵守、土肥勝五郎、真田大輔
  • 萩野道喜入道、寺尾勝右衛門、和期の局、大蔵卿の局
  • 宮内卿の局、右京大夫の局、玉の局、饗庭局

淀殿を合わせると合計33名になっていますが、32名と書かれています。

三十二義士と書かれている史料を見かけることがあるので、淀殿と三十二義士かもしれません。忠霊塔は1978年(昭和53年)に作られています。

大河ドラマ「真田丸」に出てくる大野治長、毛利勝永(大坂五人衆の一人)、真田大輔、大蔵卿の局の名前もあります。

真田幸村の子、真田大輔の名前もあり、わかってはいるもののショックです…。

淀殿を育てたのが大蔵卿の局で、饗庭局は浅井時代からの側近。豊臣秀頼を育てたのは宮内卿の局、右京大夫の局。

三十二義士には和歌「山里の悪夢はさめむ永しえに弥陀の浄土で一蓮托生」もありました。この周辺だけは、他の場所とは異なる重い空気でした。

5月8日が命日で有志の方による供養が行われています。

追記:大河ドラマ「真田丸」大蔵卿の局役の峰村リエさんも、ドラマが終了した12月20日「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」に訪問されています。

 

「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」の後ろにある台座

その後ろには、以前何か祠があったような台座が残っています。特に説明は書かれていません。

 

大阪城天守閣

忠霊塔から見た大阪城天守閣。見落としがちな「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」もあわせて訪ねてみて下さい。

参考:「大阪城の重要文化財」10箇所

参考:「大阪城の史跡・名所」一覧

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