大阪城は明治時代に入り、陸軍の第四師団司令部として、そのまま昭和の第二次世界大戦まで利用されてきました。
大阪城の東側には兵器工場「大阪砲兵工廠」もあったことから、終戦頃までに何度も攻撃されています。
大阪城の山里丸にある石垣に機銃掃射痕が今でも残っています。その場所・地図・歴史についてご紹介します。
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「山里丸石垣の機銃掃射痕」の場所
大阪城の山里丸という場所に向かいます。
大阪城公園駅や大阪ビジネスパーク駅から徒歩で行くと、極楽橋があります。この橋を渡りましょう。
少し坂を上ると「刻印石広場」があります。そこの向かい側になります。このあたりは山里丸と呼ばれています。
普段は大阪城天守閣に向かうため、この写真の坂のスロープを上っていくのですが、今回は上らずにその右に見えている石垣に向かいましょう。
この石垣の下側に注目。一部破損している個所が機銃掃による攻撃の痕にあたります。
「山里丸石垣の機銃掃射痕」説明
「山里丸石垣の機銃掃射痕」前に到着。丁度目の前に説明文がありました。
石垣の表面に残る傷は、第二次世界大戦末期の空襲による被害の痕跡です。機銃掃射(きじゅうそうしゃ)によって付いたものと推定されています。
1945年(昭和20年)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度の大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となりました。
山里丸ではこのほかにも爆弾によって、南側石垣上部が吹き飛ばされたり、北側内堀に面した石垣も数か所ひずみましたが、現在は修復されました。
参考:「山里丸石垣の機銃掃射痕」説明文を一部抜粋し要約
太平洋戦争で大阪は8回も空襲にあいました。その中で大阪城は陸軍の第四師団司令部と、軍事工場「大阪砲兵工廠」があったことから、特に標的になっています。
第二次世界大戦終戦直前となる8月14日にも大阪城を含む京橋付近での空襲でたくさんの方が亡くなっています。
その時の空襲の一部がこの機銃掃射の痕跡です。
この場所は爆弾もありましたが、機関銃だったため、細かな穴がたくさんあいているのを確認できます。
別角度から見ると、アメリカ軍が飛行機から機関銃を撃った痕が複数見られます。
この付近の石垣がかなりダメージを受けています。実際に歩いて確認してみて下さい。
図録、書籍で第二次世界大戦直後の山里丸を確認
図録「描かれた大坂城・写された大阪城」によると、1940年(昭和15年)12月から陸軍は軍事機密保護を理由に天守閣を目隠しにしたということが書かれています。
また、山里丸には陸軍の宿営施設が建てられ、ボロボロの練習用飛行機が置かれているのも、当時の写真から確認できます。
このように軍事関係が密集していたことからも、山里丸が攻撃されたことがわかります。
その他「破損著しい大阪城」として天守台南西角に落ちた1トン爆弾で天守台の一部が欠けているのを写真から確認できます。
書籍「大阪城ふしぎ発見ウォーク」よると、大阪城天守閣を目がけて1トン爆弾が2つ落ちましたが、天守閣の建物本体を避けるように落ちたことから、天守閣は幸い残ったと学芸員の北川央氏が語っています。
爆弾は天守台の石垣にはあたり、東北隅の石垣が歪んでいるのも見ることができます。
大阪城「山里丸石垣の機銃掃射痕」地図・場所
大阪城公園案内図より
最寄駅はJR大阪城公園駅、地下鉄大阪ビジネスパーク駅から青屋門、極楽橋を抜けると山里丸があります。
地下鉄・京阪「天満橋駅」からは京橋口から入り極楽橋を上りましょう
谷町四丁目駅と森ノ宮駅からは丁度反対側に位置します。大阪城本丸に行った後に反対側にある山里丸に向かいましょう。