今ある大阪城天守閣は何代目かご存知ですか?実は3代目なのです。
豊臣大坂城、徳川大坂城など歴史を重ねて今があります。途中、城が無く天守台だけで時代もありますよ。
大阪城天守閣の歴史を時系列に振り返ってみましょう。
大坂石山本願寺時代:豊臣大坂城以前
1496年(明応5年)、浄土真宗の蓮如上人が、現在の大阪城付近に坊社を建て営んでいました。これが後に大坂石山本願寺という巨大勢力になっていきます。
大寺院となった大坂石山本願寺は巨大勢力を持ち始め、織田信長vs大坂石山本願寺との争いになっていきます(石山合戦)。
1580年(天正8年)に天下統一を目指している織田信長に屈し、寺院や寺内町は炎上しました。
現在、大阪城公園内に「石山本願寺推定地」と「蓮如上人袈裟懸けの松」の碑があります。
1代目大阪城:豊臣大坂城時代
石山本願寺を破った織田信長は、その後「本能寺の変」で自害。次の政治の主導権を握ったのが豊臣(羽柴)秀吉でした。
豊臣秀吉は1583年(天正11年)に、石山本願寺があった場所に大坂城をの築城を開始し、大城郭を築き上げます。
豊臣秀頼・淀殿は大坂夏の陣で自刃
しかし秀吉没後は、政権が徳川家康に移ります。2代目豊臣秀頼と淀殿が依然大坂城に住んでいましたが、1615年(慶長20年=元和元年)に大坂夏の陣により、豊臣大坂城は落城してしまいます。
大坂夏の陣の後に、豊臣大坂城は跡形もなく埋め立てられてしまいます。
(余談ですが、全て埋められてしまったということは、今の大阪城の地下に金銀財宝が埋まっているのでは?と予想してしまうのですが……)
現在、大阪城公園内には「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」碑、淀君並殉死者三十二名忠霊塔の碑があります。
2代目大阪城:徳川大坂城時代
豊臣大坂城は2代目征夷大将軍・徳川秀忠の命により、1620年(元和6年)から10年をかけて全面的に再築されました。
豊臣大坂城を埋め立てて、平らにした状態から徳川大坂城を建築。これが今ある天守台や内堀、外堀の原型になります(ただし天守は除く)。
しかし、1665年(寛文5年)、徳川大坂城の天守が落雷にあい失ってしまいます。それ以降の徳川時代はずっと城の無い、天守台だけの時代が続きました。
徳川大坂城は、幕府の西日本支配の拠点として続きます。天守台だけしかないので、現在の本丸付近にあった本丸御殿に住んでいました。
その後徳川大坂城は、幕末の戊辰戦争で、本丸御殿の大台所付近から出火し、翌日までに城の建造物の大半を焼失してしまいます。
現在、大阪城公園内には本丸御殿跡の説明文があります。
3代目大阪城:昭和の天守閣復興
明治以後、大阪城は陸軍用地として使われます。1885年(明治18年)、和歌山城の紀州御殿の一部を大阪城本丸に移築され、陸軍庁舎や明治天皇の行在所として使用。この紀州御殿は昭和22年に焼失。
1931年(昭和6年)、市民の熱意で現在の天守閣が鉄骨鉄筋コンクリートで復興され、博物館施設として現在に至っています。この時、紀州御殿の横に第四師団司令部も新築。
現在の大阪城天守閣は大阪市民による浄財・約150万円でを費やして建てられました。現在の約750億円に相当します。
大坂城周辺は第2次世界大戦(太平洋戦争)で空襲の損害がありましたが、戦後は史跡公園として整備されています。
大阪城年表
- 1583年(天正11年):石山本願寺跡地に豊臣秀吉が豊臣大坂城を建築
- 1615年(慶長20年=元和元年):大坂夏の陣で、豊臣大坂城は落城
- 1620年(元和6年):2代目将軍・徳川秀忠が10年かけて徳川大坂城を建築(豊臣大坂城とは全く別の形状)
- 1665年(寛文5年):徳川大坂城の天守が落雷のため焼失、以後天守台のみ
- 1868年(慶応4年):新政府軍と旧幕府軍との交渉の最中、場内の数か所から出火し、炎に包まれる
- 1885年(明治18年):和歌山城の紀州御殿の一部を本丸に移築
- 1931年(昭和6年):市民の寄付により鉄骨鉄筋コンクリートの最新型大阪城と第四師団司令部が完成
- 1945年(昭和20年):第2次世界大戦(太平洋戦争)の空襲で、櫓や天守台などに大損害を受ける
- 1947年(昭和22年):本丸にあった紀州御殿が焼失
- 1995年(平成7年):構造補強を行い改修工事が実施
- 1997年(平成9年):改修工事が完了し竣工