大阪城公園の西の丸庭園内に重要文化財「焔硝蔵(えんしょうぐら)」があります。焔硝とは火薬という意味です。
西の丸庭園内にあるため、10か所ある大阪城の重要文化財の中で唯一有料になっています。
大阪城「焔硝蔵」の場所、地図、その歴史についてご紹介します。
さらに詳しく
大阪城「焔硝蔵」場所
大手門から入り多聞櫓を越えると西の丸庭園があります。その西の丸庭園内の一番奥にあります。
芝生広場を抜けて迎賓館の方に行きましょう。この迎賓館の反対側、入口付近にトイレがあります。その横に焔硝蔵があります。
横に長く石垣が組まれたのが焔硝蔵です。
焔硝蔵の歴史
焔硝蔵の入口付近に説明文があります。
徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685年)に建造されたものです。
焔硝蔵はそれより以前にも大阪城内に数か所ありましたが、青屋口にあった土蔵造りの焔硝蔵は万治3年(1660年)に落雷を受け、大爆発を起こしました。
また、別の場所にあった半地下式の焔硝蔵も部材の腐食による立て直しが度々行われるなど、幕府は焔硝の有効な保管方法に苦慮していました。
その課題を克服するべく、この焔硝蔵では耐火・耐久・防水に特に工夫がこらされ、床・壁・天井・梁(はり)をすべて花崗岩にし、石壁の厚さは約2.4m、屋根の下は土で固められています。
面積は171.9㎡、高さは5.4mで、このような石造りの火薬庫は日本では例がありません。
徳川時代の大坂城には、西日本の幕府の軍事拠点として、焔硝以外にも大量の兵糧や武器武具が備蓄されていました。
参考:焔硝蔵の説明文を一部抜粋して要約
江戸時代の大坂城は軍事拠点となっていたため、焔硝蔵(火薬庫)が常備されていました。
大阪城には焔硝蔵が複数あったことがこの説明文以外に、迎賓館横の休憩室にもパネルで説明がありました。
唯一残ったこの焔硝蔵には周囲を花崗岩にしたり、石壁を分厚くしたりと、たくさんの工夫がなされたことで、現在まで残っています。
焔硝蔵を横から撮影した様子。奥行きのある造りになっています。
瓦には徳川幕府時代に造られたことがわかる「葵の御紋」を確認することができます。
図録から焔硝蔵を確認
図録「描かれた大坂城・写された大阪城」に古写真があり、西の丸の八角薪櫓とその奥に焔硝蔵が写し出されています。
この古写真は昭和6年に現在の大阪城建設中のもので、大阪城の骨組みも奥に写っているので貴重な写真です。
この写真から西の丸焔硝蔵の横に八角薪蔵があったことがわかります。八角薪蔵とは八角形の形をした蔵で、中に薪(たきぎ)がたくさん保管されていました。
八角形という個性的な造りですが、戦災の影響か、無価値と判断され撤去されたか、現存はしていません。
学芸員が焔硝蔵を語る
大阪城天守閣学芸員の北川央さんによると、万治3年(1660年)の落雷で大爆発を起こした青屋口の焔硝蔵は凄まじい爆発だったと語っています。
大阪城で死傷者が出て、大阪城の建物や、付近の民家でも1400軒以上が破損したそうです。この青屋口の扉の破片が、大阪府と奈良県の県境にある暗峠まで飛んだと伝えられています。
これに懲りた徳川幕府がこの総石造りの火薬庫をつくりました。石と石の隙間を漆喰で埋めています。
大阪城「焔硝櫓」地図・アクセス
谷町四丁目駅からは大手門を入り多聞櫓を越えると西の丸庭園があります。西の丸庭園(有料)を入り芝生広場の奥に焔硝蔵はあります。
森ノ宮駅からは玉造口から入りましょう。直進し桜門を見ながら素通り、太鼓櫓跡を抜けると、西の丸庭園があります。後は中に入り直進しましょう。
天満橋駅からは谷町四丁目駅からと同様に大手門から入りましょう。大阪城公園駅や大阪ビジネスパーク駅からは反対側になるので大阪城天守閣の痕に桜門からでて西の丸方面に行きましょう。