大阪城天守閣の前に大きな広場があります。このあたりは当時、本丸と呼ばれていました。
現在はタイムカプセルや屋台、木々などが立ち並んでいるだけですが、江戸時代にはここに本丸御殿がありました。
本丸御殿跡とその後に建てられた紀州御殿跡の場所、地図、その歴史についてご紹介します。
さらに詳しく
大阪城「本丸御殿跡・紀州御殿跡」の場所
東側には旧第四司令部庁舎があり、西側には日本庭園があるこの広場が本丸と呼ばれる場所です。ここに江戸時代に本丸御殿、明治時代に紀州御殿がありました。
現在はこの場所に屋台カーが6台ほど並んで停車して、食べ物を販売しています(上の写真参照)。
今は木々が立ち並び、その横にはタイムカプセルがあります。写真の記念撮影しているあたりがタイムカプセル。
この広場の全体に本丸御殿がありました。説明文は大阪城天守閣の丁度向かいにある屋台カーの端にあります(写真参照)。
本丸御殿と紀州御殿の歴史
屋台カーの横に本丸御殿跡と紀州御殿跡の説明文があります。
城の中心部を本丸と言い、大坂城の本丸には天守の他、政治を行うための御殿がありました。豊臣時代の本丸御殿は大坂夏の陣で焼失し、その後、徳川幕府によって本丸に盛り土をほどこし、再び築かれました。
幕末には十四代将軍徳川家茂が長州戦争の指揮をとるなど、重要な歴史の舞台にもなっています。
1868年(慶応四年=明治元年)、明治維新の動乱で本丸御殿は全焼し、明治18年、敷地に和歌山城二の丸御殿の一部が移築されましたが(紀州御殿)、これも1947年(昭和22年)に焼失しました。
参考:本丸御殿跡の説明文を一部抜粋し要約
天守の向かい側一体を本丸と言い、江戸時代に本丸御殿がありました。特に江戸時代1665年(寛文5年)徳川大坂城が落雷の為焼失したため、その後はずっとこの本丸御殿で政治を行っています。
幕末に新政府軍と旧幕府軍との間に戊辰戦争が起こり、本丸御殿は焼失しました。
その後本丸は何もない状態が続きますが、明治18年に和歌山城の紀州御殿の一部を移築します。これは紀州御殿と呼ばれていました。その後、残念ながら1947年(昭和22年)に紀州御殿も焼失し、現在の何もない状態になっています。
図録から紀州御殿を確認
本丸御殿は江戸時代なので図録には載っていませんでしたが、紀州御殿は明治時代以後なので写真が載っています。
図録「描かれた大坂城写された大阪城」に大正時代(1912年~1926年)に使用された記念スタンプ付きの「大阪城址絵葉書」が載っています。
その一枚に第四師団司令部として使われていた本丸の紀州御殿が載っています。その後、昭和初期になり第四司令部庁舎が建設されるまでの間は、紀州御殿を陸軍が使用していました。
図録「特別展・大阪城の近代史」にも紀州御殿の情報が以下のように載っています。
- 「大阪府写真帖」より
- 古写真・紀州御殿御座所
- 大阪城紀州御殿杉戸
- 時事写真新報社写真ニュース第1020号(3)「大阪城内の紀州御殿、天臨閣と改名さる」
「大阪府写真帖」の紀州御殿の下に補足があり、そこに「紀州御殿は第二次世界大戦後、アメリカ軍の占領下にあった」と書かれています。昭和22年に焼失とありますが、このアメリカ軍の占領下の時に焼失したのかもしれません。
天皇が紀州御殿を行在所とした
紀州御殿御座所の下の補足によると、明治天皇が大阪城を訪れた時に紀州御殿を行在所としています。
明治天皇は明治20年と明治31年の大阪行幸の際、大阪城に入り紀州御殿に宿泊していました。その時の御座所は第二次大戦終結まで保存されていたそうです。
現在、本丸跡には「明治天皇駐蹕之所」碑があります(上の写真参照)。駐蹕(ちゅうひつ)とは車を少し止めるという意味なので、紀州御殿に行在所として使用したことを意味します。
紀州御殿は天臨閣に改名
昭和6年に大阪城天守閣が復興し、第四師団司令部庁舎の完成以後に、紀州御殿は迎賓館として利用されました。
昭和天皇も紀州御殿を行在所とした時に、「天臨閣(てんりんかく)」という名前に改称されました。
「本丸御殿跡・紀州御殿跡」地図(アクセス)
地下鉄「谷町四丁目駅」からは大手門から入り、多聞櫓、太鼓櫓跡を越え左折、左手にある桜門から入りましょう。
森ノ宮駅からは玉造口から入り左折、しばらく歩き右手に見える大阪城の桜門から入るとあります。
天満橋は西外堀沿いを南に歩き、大手門から入りましょう。後は谷四からの行き方と同じです。大阪城公園駅は青屋門から入り坂を上って大阪城天守閣に向かうとその前の広場が本丸にあたります。