大阪城天守閣に入場する直前に井戸があります。この井戸の名前を「金明水井戸屋形」と言います。
ほとんどの人がすぐに天守閣に入ってしまう中、さりげなくたたずんでいるのがこの井戸。なんと重要文化財なのです。
徳川大坂城が落雷にて焼失する中、この井戸だけは焼失することなく残りました。重要文化財「金明水井戸屋形」についてご紹介します。
さらに詳しく
重要文化財「金明水井戸屋形」の場所と地図
大阪城天守閣に入場し、階段を上っていく途中、小天守台にあります。
階段を上り左折すると井戸があります。
これが「金明水井戸屋形」。屋形とは「小さな小屋」や「屋根だけの家」という意味です。
小さな屋根があり、その中央に金明水井戸があります。
「金明水井戸屋形」マップ
地図出典:大阪城公園
重要文化財「金明水井戸屋形」は大阪城天守閣に入る途中にあるので、チケット代(入場料)が必要です。天守閣に入る直前にあるので見忘れに注意してください。
「金明水井戸屋形」特徴
大阪城の小天守台にある井戸の建物。水面まで約33m。井筒は一戸の石をくり抜いて作られています。
豊臣秀吉が水の毒気を抜くために黄金を沈めたという伝説があったが、学術調査の結果、この井戸は徳川幕府が大坂城再築に伴い、1624年(寛永元年)に新たに彫られた井戸であり、屋形(屋根)は1626年(寛永3年)に創建された当時のものということがわかりました。
1665年(寛文5年)に落雷により天守閣は焼失しますが、この「金明水井戸屋形」は残り続けました。
江戸時代までは黄金水(おうごんすい)と呼ばれていましたが、本来の金明水(金水)は、天守の東側、現在の配水池あたりにありました。
参考:「重要文化財 金明水井戸屋形」説明板、一部抜粋
ずっと豊臣秀吉が関係している井戸だと信じられていたようですが、調べてみるとそうでは無く、徳川大坂城時代のものです。正しくは黄金水井戸。
天守閣に一番近い井戸なので黄金水、少し離れて金明水、銀明水の順で名前が付けられたそうです。
33mととても深い井戸でなのでくみ上げが大変ですが、今でもこの井戸には湧水が湧いています。今でもとても綺麗な水だと、大阪城天守閣学芸員の北川中央さんが話されていました。
江戸時代末期(幕末)の絵図「錦の御旗」や「戊辰戦争絵巻」を見ると、中央に天守閣は無いのですが、小天守台にポツンとこの「金明水井戸屋形」が描かれています。
参考:図録「幕末の大坂城」:p.64「錦の御旗」より
参考:図録「大坂城近代史」:P.7「戊辰戦争絵巻」より
また、絵図「金城聞見禄」の「天守台の図」にも天守台の一段下にある小天守台に絵と「黄金水」という文字が書かれています。
参考:図録「描かれた大坂城・写された大阪城」p.45「金城聞見禄」より
昭和34年の調査で、発見されたのは兜鉢やピストルなどでした。兜鉢は江戸時代で、ピストルは大阪鎮台時代か第四師団時代に投げ込まれたものだろうと言われています。
井戸で見つかった検出品については、特別展「大阪城の近代史」で展示されました。
参考:特別展「大阪城の近代史」P.17「大阪城金明水井戸検出品」より
大阪城本丸内の工事中の壁にパネルが描かれています。その中に「浪華城全図」がありました。この絵によると1665年(寛文5年)に天守を、1783年(天明3年)に大手口多聞櫓を落雷で失ったとあります。
今の「浪華城」パネルを拡大。たしかにこの絵には天守閣が無くなって、天守台だけなのがわかります。そして天守台の前にある小天守に「金明水井戸屋形」があるのを確認できます。
より拡大して見てると赤色で「黄金井」と書かれていました。
屋形(屋根)を見てみると、徳川幕府の葵の御門が彫られているのが、はっきりとわかります。
天守閣入口、砲台横に「金明水井戸屋形」があります。お見逃しなく。