豊臣秀吉は織田信長の家臣の一人でした。
もし本能寺の変が起こらなければ、秀吉は天下統一まで成し遂げられなかったかもしれません。
「いかにして秀吉は天下統一を成し遂げたのか」について順に紹介します。
- 本能寺の変:明智光秀が織田信長を倒す
- 豊臣秀吉は中国地方の毛利輝元と戦っていたが和平を結び、京都に移動し明智光秀に勝利
- 織田信長の跡継ぎの話し合い「清州会議」で柴田勝家との対立が深まる
- 豊臣秀吉は京都の大徳寺で織田信長の葬儀を行い、信長の後継者として広まる
- 柴田勝家が豊臣秀吉を討とうとするも、逆に勝家を倒す
- 大坂城を石山本願寺跡に築城
- 戦上手の徳川家康に手こずる:小牧・長久手の戦い
- 征夷大将軍になりたいがなれないので、貴族(関白)になり天皇の名で大名を従える
- 紀伊の一揆、四国、北陸を続々と平定
- 妹・朝日姫が徳川家康と政略結婚、そして母親までも差し出す
- 豊臣秀吉は太政大臣になり、豊臣の姓をいただく
- 薩摩の島津氏を倒し九州平定を成し遂げる
- 小田原・北条氏を滅ぼす
- 奥州を平定し、天下統一をはたす
- 豊臣秀吉の天下統一まとめ
本能寺の変:明智光秀が織田信長を倒す
本能寺の変とは、天正10年(1582年)6月に家臣・明智光秀が織田信長を倒した事件です。
信長は夜寝ている時を襲われたため不意をつかれます。
周囲を取り囲まれると逃げられなくなた信長は本能寺に火を付け自害しました。
豊臣秀吉は中国地方の毛利輝元と戦っていたが和平を結び、京都に移動し明智光秀に勝利
▲山崎の戦いが行われた天王山
織田信長が亡くなってから2日後、中国攻めをしていた豊臣秀吉は毛利輝元と講和を結ぶことに成功。
一気に山陽道を引き返し(中国大返し)、山崎で明智光秀に勝利しました。
「織田信長の敵討ち」というスローガンから、4万の兵を集めたのが勝因です(天王山の戦い)。
これにより秀吉は家臣から一歩抜け出すことに成功しました。
織田信長の跡継ぎの話し合い「清州会議」で柴田勝家との対立が深まる
織田信長の跡継ぎの話し合いが行われます。
豊臣秀吉は池田恒興や丹羽長秀と一緒に三法師(後の織田秀信)を推薦。
それに対し柴田勝家は織田信孝を推薦しますが、多数決の結果、三法師に決まりました。
柴田勝家の妻は織田信長の妹・お市なので、これまでは織田信長の一番の後継者でしたが、今回豊臣秀吉の施策にかかり激怒。
対立が深まていきます。
豊臣秀吉は京都の大徳寺で織田信長の葬儀を行い、信長の後継者として広まる
織田信長の葬儀を大徳寺で行います。それを盛大に行ったのが豊臣秀吉。
これにより多くの人に豊臣秀吉が織田信長の後継者として広まっていきました。
柴田勝家が豊臣秀吉を討とうとするも、逆に勝家を倒す
清州会議以後、豊臣秀吉との対立がさらに深まっていました。
三男・柴田信孝、滝川一益と組んで豊臣秀吉を討とうとするも、市松(福島正則)や虎(加藤清正)たちが一気にかけ走り、油断をしていた柴田勝家を倒すことに成功。
大坂城を石山本願寺跡に築城
長年織田信長が戦ってきた石山本願寺跡に大坂城を築城します。
大坂城天守閣は信長が建てた安土城よりも大きな城でした。
これは周囲に自分が後継者であり、天下人であることを認知させるためでもあったのです。
天下統一まであとわずか。
戦上手の徳川家康に手こずる:小牧・長久手の戦い
豊臣秀吉は小牧で徳川家康と織田信雄(のぶかつ)の連合軍と戦います。
豊臣秀次(羽柴秀次)を総大将に森長可(ながよし)、池田恒興(つねおき)を引き連れて戦うも、長久手付近で徳川家康の先鋒隊に敗れ、森長可(ながよし)、池田恒興(つねおき)が討ち死にしてしまいました。
戦上手の徳川家康に手こずります。
その後にらみ合いが続きますが、織田信雄(のぶかつ)との講和に成功。
徳川家康も織田信雄(のぶかつ)を助ける大義名分が無くなり、秀吉と講和しました。
征夷大将軍になりたいがなれないので、貴族(関白)になり天皇の名で大名を従える
征夷大将軍になるには源氏や平家の血筋が無いとなれないことから、前将軍・足利義昭に頼み養子にしてもらうように頼んでみましたが、断られてしまいます。
将軍になれないとわかると、自分が貴族になり、天皇の名をかりて大名を従えさせる方向に変更します。
関白の座が空いているということを知り、右大臣・菊亭晴季(きくていはるすえ)の取りなしで関白になることができました。
「関白任官記」でも強引に貴族の生まれであることが書かれています(笑)。
紀伊の一揆、四国、北陸を続々と平定
全国統一まであと僅か、根来・雑賀一揆を討ち紀州を平定。
次に弟・豊臣秀長が四国を平定。
そして越中・佐々成政(さっさなりまさ)を討ち北陸を平定していきます。
妹・朝日姫が徳川家康と政略結婚、そして母親までも差し出す
徳川家康はこれまで上洛したことがありません。天下統一には家康も従わせることが必要。
そのため、秀吉の妹である朝日(旭姫)と家康と政略結婚することを考えます。
それでも上洛しない家康に対し、母親までも人質として差し出したのです。
秀吉の妹と母親がやってきたことで、家康はついに秀吉に会うことにしました。
そして秀吉は会合で、家康が秀吉の下についてもらうことを先にお願いして承知させた結果、徳川家康は豊臣秀吉の下につくことになりました。
豊臣秀吉は太政大臣になり、豊臣の姓をいただく
関白・秀吉はついてに太政大臣になり、天皇から「豊臣」の姓をもらうことになりました。
これ以降は羽柴秀吉から豊臣秀吉になります。
ちなみに姓とは、藤原、橘、源、平と並ぶ、時代に貢献したものが天皇からいただく名前のこと。ここに豊臣が加わりました。
薩摩の島津氏を倒し九州平定を成し遂げる
豊臣秀吉は大軍をひきいて九州に進み、次々と島津軍を倒します。
最終的に島津義久は、秀吉の前に出頭し降伏。
九州平定を成し遂げました。
小田原・北条氏を滅ぼす
徳川軍を加えた20万以上の兵が小田原に集結。豊臣軍が小田原城を囲みます。
籠城作戦にでて長期戦になりますが、小田原城は開城。北条氏は滅亡しました。
奥州を平定し、天下統一をはたす
最後に伊達政宗がいる奥州を平定し日本全国を統一。
ついに豊臣秀吉は天下統一をはたしました。54歳。
豊臣秀吉の天下統一まとめ
豊臣秀吉は46歳の「本能寺の変」からスタートし、54歳の「奥州平定」までの9年をかけて天下統一を成し遂げました。
改めて振り返ると、戦って勝つというよりは、逃げ道を作り平定する作戦を取ることが多いのがわかります。
やはりキーポイントは「本能寺の変」。
織田信長の一家臣に過ぎませんでしたが、これを利用し他の大名を取り込めた後は、勢いで一気に上に上り詰めます。
一番難しかったのは徳川家康と言えるでしょう。「長久手の戦い」では失敗していますからね。
天下統一するには家康をどうにかしないと達成できません。
ついに秀吉は妹の旭姫と母を差し出すことで、豊臣秀吉の考えがわかった家康は家臣になり、そこから一気に天下統一を達成したのです。
さらに詳しくは「豊臣秀吉」を続けて読んでみて下さい。