豊臣秀吉は家族や家臣が見守る中、1598年(慶長3年)9月18日に62歳で亡くなりました。
ではいったいどのような死因だったのでしょうか?
豊臣秀吉の死因について関係がある部分を踏まえて紹介します。
豊臣秀吉は醍醐の花見の後に病気になり、朝鮮出兵の時期に体調が大きく崩れる
1598年(慶長3年)4月、醍醐での盛大な花見(招待客1,300人)が行われた後に、豊臣秀吉は病気がちになりました。
食欲がなくなり、体力が落ちて、どんどん痩せて行くようになりました。
その後、豊臣軍による朝鮮出兵が行われますが、その時にさらに体調が大きく崩れたのです。
豊臣秀吉は死期が近づくているのを感じ、大名に遺言状を送り書面を提出させる
豊臣秀吉は体調を大きく崩してから、遺言状を送っています。内容はまだ小さい息子・豊臣秀頼のことでした。
秀吉死後、秀頼への忠誠を誓うように遺言状を送り、そして遺言状を誓うことを約束する書面を提出させたのです。
有力家臣、五大老と五奉行を決めて豊臣秀頼に忠誠を尽くすように頼みました。
豊臣秀吉の死因は?
豊臣秀吉の死因については不明です。醍醐の花見の直後から病気になってから、たった3ヶ月後に亡くなりました。
色々な書物に書かれている説をまとめました。
死因は体の中の臓器による病気や癌の可能性が高い
大腸がん、脳梅毒、赤痢など痢病、脚気、腎臓系の病気、風邪や肺炎など呼吸器系などが言われています。
- 大腸がん説
- 脳梅毒説:大名に多かった
- 赤痢など痢病説:「日本西教史」に記載
- 脚気説:「寿命戦争−武将列伝」に記載
- 腎臓系の病気説:平凡社「大百科事典」に記載
- 風邪や肺炎など呼吸器系説:藤堂高虎と同じ漢方「桔梗湯(ききょうとう)」が処方されていた
色々な書物が色々な死因を書いているので、どこにもはっきりとした死因はわかりません。
しかし平凡社「大百科事典」が腎臓系の病気、藤堂高虎と同じ漢方「桔梗湯(ききょうとう)」が処方されていたということから、風邪からくる肺炎などの呼吸器系説が挙げられます。
体調が悪くなり痩せていたということから大腸がん説もあります。
つまり、外的なものではなく、体の中の臓器による病気や癌だというのがわかります。
毒殺説もある
そしてもう一つあるのが毒殺説。
明の使節・沈惟敬(しん・いけい)が来日した時に毒を入れたと朝鮮の古文書「燃藜室記述」に書かれています。
しかし彼が来たのは1596年(慶長元年)と3年前だったので、直接的な死因ではないと言われています。
徳川家康など大名による毒殺説もありますね。
医学薬学に精通している徳川家康なら毒殺してから脳梅毒に死因を置き換えるというのも有り得そう。
もしあったとしても墓場まで持っていく内容なので、公に出ることはありませんでした。
当時の豊臣秀吉の死因は、方広寺大仏殿取り壊しによる祟り(たたり)だと言われている
▲写真は現在の「方広寺 本堂」
1596年(文禄5年)の慶長伏見大地震により、方広寺の大仏が損壊してしまいました。
その後、秀吉は夢のお告げにより、方広寺に大仏の代わりに善光寺如来像を本尊として迎えます。
そのタイミングで豊臣秀吉は病気になり死亡したことから、豊臣秀吉の死因は方広寺大仏殿取り壊しによる祟り(たたり)だと言われていました。
現在ではその説は誰もが信じませんが、当時はそれが定説だと言われていました。
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