豊臣秀吉の誕生から亡くなるまでの詳細は「豊臣秀吉年表」にまとめています。
今回は「秀吉がしたこと」です。
- 下剋上:百姓農民から天下人に
- 天下統一(全国統一)を成し遂げる
- 豊臣大坂城の築城が権威の象徴となった
- 太閤検地で全国の生産力を統一
- 刀狩令で兵農分離に成功!農民が安定した年貢を納め、一揆も防ぐことができる
- 日本の奴隷化を防いだ。
これまでの日本の歴史とは異なることを秀吉は行いました。
その点に注目して、わかりやすく簡単にまとめています。
下剋上:百姓農民から天下人に
豊臣秀吉が生まれた時は百姓・農民でした。
その後、武士と農民の間である足軽になり、織田信長に仕えたことを切っ掛けに出世し、天下人になるまでに至りました。
最終的には公家の最高位となる「関白」まで上り詰めたことで、身分制度の頂点に立ったのです。
これまでの歴史の中でも初と言ってもよい、農民から天下人までの「下剋上」を成し遂げました。
天下統一(全国統一)を成し遂げる
明智光秀が信長を倒したのを知ると(本能寺の変)、(織田信長の部下である)豊臣秀吉はあっという間に京都に向かい明智光秀を敵討ちします。
明智光秀や柴田勝家を倒し織田信長の領土を手に入れてからは、四国、北陸、九州、関東、東北と広げて豊臣秀吉は天下統一(全国統一)を成し遂げました。
豊臣大坂城の築城が権威の象徴となった
豊臣秀吉は大坂城を第一期[1583年(天正11年)]から第四期[1598年(慶長3年)]までの15年かけて築城しています。
これまでの山城とは異なり、広大な平城を築くことで、大阪城天守閣は権威の象徴となりました。
場所は石山本願寺跡。現在の大坂城天守閣は3代目にあたります。
太閤検地で全国の生産力を統一
これまでも検地は行っていましたが、申告制であったため正確ではありませんでした。
豊臣秀吉が天下を統一してからは、検地奉行が全国各地の田畑を調べて、それぞれの生産力を測ります。
検地帳を作り、どの農民がどの土地を耕して作物を作っているのかを知ることで、誰がどれだけの税を収めるのかをまとめました。
これを太閤検地と言います。
以前は地域によってはいい加減だった年貢を統一して取り立てることに成功。
地域によって金や銀、米などと価値が異なっていましたが「米」に統一したことで、全国の土地の生産力が明確になったのです(石高制)。
刀狩令で兵農分離に成功!農民が安定した年貢を納め、一揆も防ぐことができる
豊臣秀吉が行った政策の一つ「刀狩令」も効果がある施策でした。
刀狩令とは、農民や僧侶などに、刀や槍などの武器を持つことを禁止する政策のことです。
農民には大仏建立の釘(くぎ)にするという名目です。これにより農民は仏の御加護があるということから積極的に差し出しました。
農業を専業とすることで、安定した年貢を納めさせること、農民からの一揆を防ぐことを目的としました。
これにより兵農分離政策に成功しています。
日本の奴隷化を防いだ
一般的に「バテレン追放令」と呼ばれるものですが、これまでとは意味が異なってくる内容です。
「バテレン追放令」と言えば、豊臣秀吉がキリスト教の布教を防いだということで、信仰の自由が無くたったと言われていましたが、実はそうでは無かったことが明らかになっています。
秀吉が「バテレン追放令」を出したのは、日本人女性が奴隷として海外に連行されていることを知ったからです。
西洋人はキリスト教の布教で表れました。そういう布教活動を目的としていた西洋人もいましたが、全員がそうではなかったのです。
特にポルトガル商人は違いました。
日本の領土をイエズス会に与えていたキリシタン大名の有馬晴信の件、秀吉を軍艦に乗せたイエズス会宣教師・コエリョが自分で運転できるなど軍事力を見せつけた件を踏まえて、日本が占領されるという危機感を持ちました。
そのためのバテレン追放令であることが最近の調べてわかっています。
つまり豊臣秀吉は日本の人権と領土を守ったとも言えます。
より詳しくは「豊臣秀吉」を見て下さい。